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祖母のお通夜・お葬式



《4》祖母のお通夜・お葬式


祖母の初孫として、そして祖母と友だちのように仲が良かった孫として、こんな状況でもなるべく頭を働かせて悔いのないように行動したいと思い、そこで出来たこと、出来なかったことを記しておきます。
 

祖母が亡くなった日の夕方、わたしはお通夜の服装などの準備もあったので一旦自宅に帰りました。電車に乗っていても、自転車で走っていても、涙が止まりませんでした。その日は寝るまでとにかくずっと泣き続けました。
翌日は、祖母の遺影や棺に入れるものを選んだり、腹水が溜まったままの祖母が棺の中でも着られるものを探すのに、朝10時に兄弟で集まるという連絡が入り、孫のわたしが行くと人数だけ多くなってややこしいだけかなと少し遠慮したけれど、母に「ランドとの繋がりは濃かったから来てくれてええよ」と言ってもらい、わたしも兄弟たちに混ざりました。


晴れた朝。
家から自転車に乗って駅に向かう道のりで最初にiPodから聴こえてきたのが、ジョンレノンのOh My Loveという歌でした。なんだ、祖母に何も関係がない曲だなと思いながら、久しぶりに晴れた空とそのメロディが今の感情に拍車をかけてしまい、結局また泣きました。


以前であれば祖母のマンションの部屋番号を押して呼び出しボタンを押すと、祖母の声が聴こえてきたインターホン。
その日は母が出ました。
もう祖母が戻ることのない家。
ほんの少し前まで祖母が寝ころんでいた真っ赤なソファ。
部屋のところどころに飾られた、昔わたしが描いていたイラスト。
祖父の遺影の前の、多分入院する前までみかんか何かを置いていたのだろうカビ。
主を失くした服や靴、食器、すべて。
祖母もいないのに、わたしや兄弟たちが祖母の部屋の中を歩き回ります。心の中で「おばあちゃんごめんやでー。ここ開けるでー。」なんて言いつつ、遺影になる写真や着物、祖母の死を伝えるための名簿を探したりしました。

5年前、祖母は写真屋さんで遺影を撮っていました。大好きなピンク色の着物。でも、髪をアップするのが似合わなかった祖母。せっかく撮ってもらったものの、その遺影はあまり気に入っていなかったようです。
祖父のときもお世話になった冠婚葬祭の業者さんからは、着物はお腹が膨らんでいても着られるのでできれば着物、もしその着物が無かった場合は棺の中で着せるのは白装束しかないと言われていて、白装束はかわいそうなので、必死で着物を探しました。わたしが探し出す!と使命感に駆られていたわたしは、クローゼットにも押入れにもなく諦めかけた頃、昔から着物が好きだった祖母がそんな大切なものをどこにしまう?と思ったとき、ふと閃いたのがベッドの下でした。こういうとき、人は夢見がちな人間になるんですね。わたしは、それがまるで祖母がわたしに耳打ちしてくれたかのように感じました。着物と一緒に長襦袢なども一緒に入っていたけれど、着物の次は足袋がない。足袋を探しました。足袋も見つけ、その後は帯も見つけ、とにかくバラバラに収納されていた着物関連のものを全部見つけました。業者さんが荷物を取りに来るまでの時間が限られていたので、必ずわたしが見つけてあげるからね、という気持ちでした。
遺影は、家にあった写真の中から、みんな「これが一番お母ちゃんらしい」と思うものを選びました。友人といて自然な顔で微笑んでいる写真でした。
あとは、祖父が着ることのなかった、母が祖父にあげた新品のシャツを、タグを切って入れました。
最期まで習っていたシャンソンの楽譜も用意し、シャンソンの発表会で着る予定だった鮮やかなオレンジ色のドレスを用意しました。


そしてまた一旦実家に帰り、夕方前に葬儀場に行きました。
無宗教なので読経もお焼香もなく、祭壇のお花は華やかで色とりどりでした。棺の中にはきれいにお化粧された祖母がいて、頭には生前祖母が使っていたウィッグもかぶせてもらったけれど、年の割にちょっと髪の量が多くて、みんなで「ちょっと不自然やったかな」なんて言って笑いました。母を含めた兄弟3人と、長男のお嫁さんと母のつれ合いとわたしとで、着ることのなかったオレンジ色のドレスを着物の上からかけてあげました。

続々と、親戚や友人たちがやってきて、席が埋まったくらいのところで簡単な式が始まり、あとは食事会となりました。
わたしたちは皆を送りだしてから食堂に着いたので、空いている席はまばら。母も、母のつれ合いも、わたしも、同時に座れる場所は空いていなくて、バラバラに座るにしても誰の近くを選んで座ったらいいのやらと思っていたところ、母のつれ合いが「あそこ座ろか」と言ってくれた場所が、祖母の長年の友人と彼氏が座っていた席でした。そうか、そうだ、そこしかない!とわたしは思いました。
食事が始まってからふと母を探すと、母は次女である妹親族のテーブルで、妹と並んで座っていました。やっぱり姉妹なんだなぁと思いました。本来はイスを置いていない通路側の誕生日席と言われる場所で、イスを持って来て2人並んで座っている姿は、とてもかわいらしかったです。
母のつれ合いが選んだ席は、自分たちにとって今までで一番関係の薄い席でした。でも、こう考えました。次女の旦那さんの親戚一同や長男のお嫁さん家族、いとこ...は、これからも会うことがある。でも、祖母の友人や彼氏には、告別式を終えればこれから先きっともう会うことはない。この場所が空いていてよかった、母のつれ合いが、知らないにしてもここを選んでくれて良かったと思いました。
食事をしつつ、祖母の話をたくさんしました。母のつれ合いは、祖母の彼氏から「あんたとは今日会ったばかりやとは思えんなぁ」なんて言われて、困った顔をしていたのが面白かったです。祖母の友人で、お酒が飲める女友だちは祖母の彼氏に「ワタナベさんって、お酒強い強いって言ってたけどそないに強くなかったわよねぇ?いつもそう言ってたけど、いつもそんなに飲んでなかったもの〜。」と、ちょっと悪口ともとれる話をしていたけれど、祖母も祖母で女友だちの悪口を言ったりしていたので、お互いさまだな、なんて思いつつ聞いていました。どんな話が出てこようが、わたしたち家族の知らない祖母の顔を知ることや、祖母の家族であるわたしたちと、ここで最後の思い出話をすること、それを役割として担った、そう思いました。

友人たちが帰っていき、遠い親戚が帰っていき、母たちも帰って、夜の10時くらいだったでしょうか、長男とそのお嫁さん家族のみになりました。長男のお嫁さんのお母さんが、祖母の死をとても悲しんでくれ、祖母の棺のある部屋とわたしたちの控え室が離れていたので、どうせ控え室で飲むのだったら、かわいそうだからお祖母さまの近くで飲みましょうと提案してくれました。
そして、長男・長男のお嫁さん・長男の従弟(祖母の妹の息子さんで、母親を同じ膵臓癌で亡くしている)・長男のお嫁さんのお兄さんとお母さん・長男の昔ながらの友人の7人で、祖母の棺の前に台とイスを寄せて、朝の4時半まで飲み明かしました。
会話は長男中心だったので、ほとんど長男中心の思い出話になっていたけれど(笑)、それもそれで、祖母はきっと「ふーん、息子にそんなことがあったのか。」と聞いていたんじゃないでしょうか。

実はわたし、翌日の告別式のために孫からの手紙をご準備くださいと業者さんから言われていました。何を書けばいいのかなと思いつつ、朝まで祖母のそばで飲んでいたので、書く暇なんてなく。ぶっつけ本番でいくことにしました。いざマイクを前にすると緊張するかも知れない、そしたら頭が真っ白になるかも知れないと、そんな風に思いながらも、祖母の遺影を前にすれば何か言葉がでてくるんじゃないか、出てこなかったら出てこなかったで、それが今のわたしの姿なのだと、変に開き直って、ほんとうに何も準備しませんでした。
5歳下のわたしのいとこも控え室にいる間に何か書こうとしてくれたようで、自分の娘に文字を書かせていた紙が、控え室に残されていました。そこには「ランドのおばあちゃんへ」と書かれていました。祖母は、いとこにとってもおばあちゃんであるのに、わたしの祖母でした。祖母には、自分の子供だと勘違いして会話されることもあったし、母と双子のようだと言われたこともありました。祖父jが亡くなってから特に密に会っていたので、孫でありながら、どこか自分の子供のような錯覚を起こしていたのかも知れません。

告別式では、親戚以外にも、昨日見た顔の人たちが来てくれていました。
祖母の子供たちが座る最前列、わたしはその後ろに母のつれ合いと一緒に座りました。
スピーカーから流れるアナウンスに、生前の祖母を思い浮かべながら思いを馳せました。
祖母が好きだったテレサテンの歌が流れていました。
昨日よりも強く、祖母の死を認識しました。
そして、わたしのスピーチの番が来ました。
祖母に伝えることももちろんのこと、祖母の告別式に来てくれた人たちにも祖母のことを伝えなければいけないと思い、病気が発覚してからのこの1ヶ月がとても早かったことや、それは祖母自身でさえびっくりしただろうということ。母にとって喧嘩相手がいなくなり張り合いがなくなったと言っていたこと、そしてわたしにとっては遊び相手がいなくなって寂しいということ。前日朝までこの場所で7人で飲んだこと、そこで悪口を言っていたのが聞こえていたかな?などと話し、いろいろ話したつもりではあったけれど、途中で後ろから母が「もっといいとこ言ってあげて」と合いの手が入ったほど、なんとも、祖母のいいところを孫が伝えるという役割は果たせませんでした。これは言いたいなと思っていたことも、すっかり忘れてしまっていました。ただ最後に、孫としてこれだけは伝えたいとふと思い、「お母さんと、○○ちゃん(次女)、□ちゃん(長男)を産んでくれて、ありがとうございました」と言って、スピーチを終わりにしました。
祖母にはいろんなことがあったけれど、全てを表すにはその言葉が一番早かったのです。
この1ヶ月、祖母の産んだ長女・次女・長男を凝縮して見てきたと思います。孫なのに、それはなんとなく自分の娘息子たちのようでもあり、愛おしい存在なのだと思いました。なんて素敵な子たちなんだろう、そう思いました。だから、小さい頃からわたしの面倒を見てくれてありがとうという意味ももちろん含めてだけれど、そう伝えました。

それまでも、これからも、どんな人生が待っているかわかりません。
でも、それもこれも、生まれてきたからこそ感じるもの。楽しいことも辛いことも、生きているからこその産物です。
「わたしは自分が死ぬ気がしない」と言っていた祖母でさえこうやって亡くなる日が訪れるのです。
限られた命、限られた時間、何を感じ何を考え暮らしていくか。
何が起きても、全てを楽しんでいけたらと思うのでした。
悲しみも、生きる喜びの1つなのではないかと、そう感じたりしています。


告別式の最後は、祖母の棺にみんなで花を入れていきました。
何本入れてもまだまだ手渡される花。
祖母の体や顔が花に埋め尽くされていく姿を見ていると、ふと母が耳元で「これおばあちゃんが唄ったやつやで」と言ってきました。耳を先ほどから流れている音楽に集中させると、そこには祖母が練習用のカセットに録音していたシャンソンが流れていました。もう聴くことがないと思っていた祖母の声。母はそれをわたしに伝えた瞬間に泣きました。泣きながらつれ合いのところに行き、母のつれ合いも腰を屈めて泣きました。
祖母と犬猿の仲とは言わないまでも、4人で飲みに行けば必ずと言っていいほど言い合いのようになっていた母のつれ合いが、母と一緒に泣いている。もうあの面子で揃うことはないんだなと分かりました。

そういえば、火葬されて出てきたお骨の口近辺にきれいな緑とピンク色のものが見えていて、祖母の妹と2人で「あれ何やろう?」と言い、火葬業者さんに尋ねてみると、「あれは入れ歯です」ということでした。「えー!」と2人して驚き、笑いました。ほんとは亡くなるときには外さなければいけないものだったと。せっかく真白だったお骨、顔の部分だけ色づいてしまっていました。アイシャドウとチークのようで、悪くはなかったけれど。


祖母が亡くなった日の夜、わたしは母に「さみしいな。」とメールを送りました。
わたしよりももっと母の方が寂しいのはわかっていました。あれだけ、自分の母親とは思えない!縁を切りたい!と言っていてもやっぱり娘。退職してからはちょくちょく祖母の様子を見に行っていたし、その分わたしに祖母の文句を言っていました。祖母が入院してからはほとんど毎日、祖母のケアや手続きをしてくれました。それが、この日から祖母の様子を見に行かなくてもよくなったし、祖母に嫌なことを言われることもなくなったのです。それがどれだけ寂しいことか。孫のわたしよりも遥かに感じていたと思います。
そして今回この長い長い文章を書くにあたって、ちょくちょくと登場した母のつれ合い。この1ヶ月強、母のことも、祖母のことも、たくさんサポートしてくれました。母の娘としてとても感謝しています。今までは2人共が自立した関係であったし、それをお互いに望んでいるようだったけれど、こういった状況になり心に変化があったのかも知れません。そして、母に何かあったときには自分が面倒を看ますと母に言ってくれたらしく、わたしに対しては、自分がそうなったときにはよろしく、と言ってくれました。うれしい言葉でした。2人の順番が来るまで、わたしは元気でがんばらないといけない!そう思いました。


祖母がいなくなってまだ1ヶ月経っていないということが不思議に感じる11月の末。仏教徒ではないけれど、節目として四十九日がお正月にあたるので、年内は家族とたくさん祖母の話をしたいと思います。

 

写真は、実家の窓から。祖母が亡くなってから8日後、母のつれ合いが以前より予約していた東京でのポールマッカートニーのライブで1泊することが決まっていたので、母が寂しいだろうと思い、晩酌の相手をと思って泊まりに行った日の空です。
 

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