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祖母の最後の1ヶ月

《3》祖母との最後の1ヶ月

時系列で書いているのでとにかく長いです。
祖母の病気の進行を見て感じたこと、気づいたこと、家族の死を看取った人間の率直な気持ちを書いているので、気分が悪くなる方もいるかも知れません。
読んでくださる方は、その点ご留意ください。
 


祖母の病名は、膵体尾部癌というもので進行性の膵臓癌でした。


・10月9日(水)
胃痛が続き食欲も失せているということで検査し、病気が発覚。

・10月11日(金)
検査入院してそのまま入院。
母たちには余命数ヶ月と宣告されたけれど、祖母には告げないようにと次女が医師にお願いしたそうです。祖母は元気になるために入院して辛い日々を乗り越えようとしていました。なので、余命なんて告げても、気力を失うだけだと判断したためです。その頃の祖母は、他の患者さんからも「あなた病気で入院してるの?」と言われるほどに顔色もよかったようです。

10月19日(土)
祖母に処方されている、痛みを和らげる合成麻薬の貼り付け剤2mgや朝晩飲んでいる痛み止めがよく効いていて、体力は落ちているものの元気で、自分が出られなくなったシャンソンの発表会を彼氏と見に行き、自宅に1泊しました。ステーキが食べたいと言っていたらしいです。

・10月23日(水)
15日にわたしの引越しが終わり、ようやく落ち着いてきたので初めてお見舞いに行きました。窓際のベッドで日当たり良く、嫌な感じはしませんでした。
筋力が落ちているらしく祖母はゆっくりとしか歩けなかったけれど、少しずつでも病院食を食べ、ゆっくり会話し、自分の娘たちが毎日会いに来てくれることがうれしかったのか、いつも以上に朗らかでした。
トイレに行くと言った祖母に、母がわたしに「手をつないだげて」と言ったのに、わたしは「コップ持ってあげるわ」と言ってコップは持ったものの、手は貸しませんでした。年寄り扱いをされるのがとても嫌いだった祖母に対して、手を差し延べることができませんでした。ほんとうは、わたし自身祖母が確実に弱っているということを受け入れられなかったのだと思います。今そんなことを思うくらいなら、祖母が嫌がってもあのとき手を貸してあげたらよかった、そう思います。
祖母は合成麻薬の張り付け剤2mgを胸の辺りに貼っていました。とにかく痛みを和らげるためのもので、祖母が医師に「これはいつまで貼るんですか?」と聞くと「ずっとです」と返答されたそうです。
ずっと、という言葉を祖母はどう受け止めていたんだろう。

・10月24日(木)
祖母、初めての抗がん剤。
余命が限られているのに抗がん剤?と思った方もおられると思います。
それはほんとうにその通りで、抗がん剤は抗がん剤に耐えられる力が残っている人が癌を治すために打つものであって、みるみる衰弱していく人間にとっては逆に、ほんのわずかに残っている元気な細胞・体力をも奪う。ほとんど意味のないものだと感じました。でも、治りたいと思っていたら1度はそれを選択するのだと思います。余命を知らさせていない祖母には尚更でした。

・10月26日(土)
母から、祖母のお腹に腹水が溜まってきてると報告が入りました。癌性腹膜炎というもので、肝臓への転移なども含めてお腹中に癌が広がっているということでした。

・10月28日(月)
この日、本人の意思をくんで予定通り退院したけれど、母に「あまりようけ人がおっても疲れると思う」と言われたので、わたしは手伝いに行きませんでした。母曰く、病院にいるときよりも元気そう、ということでした。
 


祖母の自宅からの景色。この日の夕空がため池に写りこんでとても美しく穏やかな日でした。

・10月30日(水)
祖母の自宅へのお見舞い。
お腹は臨月の妊婦さんのようになっていました。「こんな感覚久しぶりやわ」と大きなお腹をさすりながら言っていた祖母は、とても楽天的でした。
腹水が内臓を圧迫していることもあって祖母の食欲はぐんと減っていて、食べられるものもないほどだったけれど、わたしが祖母の家の冷蔵庫に入院前から入っていた野菜を使って、生姜入りのトマトスープ(玉ねぎ・千切りゴボウ・千切り人参・キャベツ・生姜、トマト缶などもなかったのでケチャップとブイヨンと塩コショウで味付け)を作ったら、器に入れた分をおいしいわーと言って全部食べてくれました。母からは、おばあちゃん何も食べへんで、と聞いていたので食べられなくても仕方が無いと思っていたけれど、あぁ、願いはちゃんと届くんだなぁと思いました。
放ったらかしになっていた冷蔵庫の中身。入院する前に祖母が作ったおかずや野菜などにカビが生えていました。祖母が元気だったころには毎日開けて息をしていただろう冷蔵庫。その中身がこんな風な姿になっていることを目にしたとき、入院したりするとこんなことになるんだなと思ったのと同時に、祖母の姿と重なり、とてつもなく悲しい気持ちが襲って来ました。祖母がすぐそばのソファに寝ころんでテレビを見ているのに。スープを作りながら、カビた野菜やおかずをビニール袋に入れて、母にそのことをメールしました。少しでも祖母の近くに腐敗したものを置いておきたくありませんでした。
その日祖母は、元気になるためには少しでも歩かなくては!という意志が強く出て、フラフラの足で出歩こうとしたのをわたしは何度も制止しました。母たちの前でよたついて床に手をついたとき、自力で立ち上がれなかったのです。それでも、あまりにも何度も言うので、そしたら一緒に歩きに出よか?と言ったときに、ようやく外出するのを諦めてくれました。
祖母が食事を終え、いろいろと話をしていたとき、わたしが引越した平野の話になり、スマートフォンで神社や風景の写真を見せると、楽しそうに「これ指でこうしたらもっと写真見れるの?」と言ってすごく興味を抱いてくれたことがうれしかったです。スマートフォンの操作を知ってることにも驚いたけれど。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、用事があったのでわたしは夜8時頃に祖母の家を後にしました。
ほんとうは泊まってあげたかったけれど。
 


祖母の自宅の電気コンロでトマトスープ。ケチャップがいい仕事しました。

・10月31日(木)
翌日、祖母が「ランドが美味しいスープを作ってくれた」と喜んでいたと母から連絡が入りました。食欲を取り戻して冷凍のタコ焼きを3つ食べ、浮腫んで入らなかった靴にも足が入って、なんと1人で出歩いたらしいということでした。でも、元気になったように思った途端、その日の夜から体調を崩し始めました。

・11月1日(金)
母からの連絡で、前日の夜に吐いてヘロヘロの祖母を、母とつれ合いが抱えて病院に連れて行き、夜間診療を受けたそうです。ただ、筋力が弱っているので歩行は困難になってはいたけれど、頭はしっかりしていて、よくしゃべっていたそう。わたしたち家族の意見は総一致で、とにかく最期のときまで痛みなどを感じずに楽に過ごさせてあげたいと思っていたけれど、痛みは薬で抑えてもらっているにしても、内臓の機能が低下しているので吐き気が出てきます。痛みはなくても、苦しさは体中で感じていたんだと思います。
筋力が弱り、その上吐くという症状。この時から、急変に備えなくてはいけないと覚悟をしはじめました。

・11月2日(土)
祖母の子供たち3人で、今後どう動いて行くかを話し合い。
どんな話し合いになったのか、翌日母に聞きました。

・11月3日(日)
朝、祖母を見舞った次女から、吐いたという連絡を受けた母。ほんとうに食べられなくなっているので、わたしは先日近所の方からいただいた柿だけを持って、祖母の家に泊まる用意をして行きました。
家に着くと、祖母は今までと違って笑顔が作れないほどしんどそうな顔をしていました。朝飲んだ薬は吐いてしまい、薬が効いていないかも知れないという不安もあったと思います。水を口に含むとそれを嘔吐し、ほんとうに辛そうだったけれど、母たちも疲れきっていて、泊まるわたしを置いてそそくさと撤退。帰ってしまった母から、「疲れていたので早々と帰ってきてごめん。何かあったらすぐに救急車を呼んで。」というメールが入りました。わたしは、今夜は救急車を呼ぶことになりそうだと思っていました。
肩で息をしていた祖母。見た目にもあまりにもしんどそうで、珍しくその日の夕方はソファではなく寝室のベッドに寝に行きました。その間、息をしているかどうか確認するために何度か寝室に行き、寝息が聴こえてきてとりあえずホッとし...を繰り返していましたが、1時間ほどしてから祖母が起きてきました。薬(漢方)の時間です。でも、また吐いてしまうかも知れないという恐怖から気が重くなっているようでした。
わたしは、どうにかして祖母の不安を和らげたり、気持ちの上でも「薬を飲んだから大丈夫」という気持ちにさせてあげたくて、祖母の前で、少量のお湯で顆粒の漢方を根気よく溶かし、そこに少量の水を加えてその湯呑みを祖母に手渡しました。ぐっと力の入った顔をした祖母。でも、ちょっと口に含み、テレビの方向をじっとにらみ、またちょっと口に含み、を繰り返し、全部飲めました。その後も吐きませんでした。
ただ、次の抗がん剤が憂鬱だということをしきりに言っていて、もうやめようかなとわたしに言いました。祖母はこの時点で、腹水が溜まるのも、こんなにしんどいのも、抗がん剤を打った副作用からだと思っていました。
このままでは脱水症状を起こすかも知れないとやけに心配そうだった祖母は、わたしに「お母さんに、先生に電話してこういう場合どうしたらいいか聞いてくれるように言ってくれる?」と言いました。急を要していないので母にメールで連絡。すると、20分後くらいに次女が慌てた様子で家に来ました。「病院に連れていって!って電話があったから」ということだったのだけれど、そんなに急いでもなかったわたしも祖母も、キョトン。でも、そのまま祖母を放っておくわけにもいかないので、介護タクシーを呼んで病院まで診察に行きました。わたしは祖母の家で、祖母が帰ってくるのを待っていました。でもその日、祖母は再入院しました。
わたしは実家に泊まりました。
 


その日は雨でした。

そういえばこの日、ニキビのプロア○ティブのCMを見たときに祖母が「この人歌上手いなぁ」と言いました。わたしは何も知らなかったので祖母に「え?この人歌手なん?一般人じゃなくて?誰かと間違ってない?」と言ったら、「メイジェイ(MayJ)って言うねん。」と言いました。テレビ番組で、勝ち抜きのようにして歌を歌っていて、すごく点数が良かったと。わたしも知らなかったMay J、祖母が認識していたことに驚きました。それでわたしはこの日初めてMay Jという人を知りました。

・11月5日(火)
病院にいる祖母から朝の7時に母のところへ電話が。「息が苦しい」ということでした。
そんな状態なのに、「(顔の)マッサージパックを持ってきてほしい」と言っていたという祖母。なんとも祖母らしい。

・11月6日(水)
お昼、母から祖母が辛そうだという連絡。いつもの時間に行く予定だったけれど、少し早めに家を出ました。

この時系列は母とわたしのメールの内容から思い出して書いているのだけれど、この日の祖母の様子があまり思い出せません。ただ、今までそんなことがなかったのに、ボーっと天井を見ている祖母を初めて見たのがこの時だったように思います。この時点で、まだ点滴は移動用のものに引っ掛けられていました。

・11月7日(木)
母から、祖母が少しお粥を食べたという報告。あと、変なことを言う、とも言っていました。合成麻薬も貼っているし、点滴には痛み止めの薬も入っていたと思うし、変なことを言うのは仕方がないこと。下ネタが出なかっただけマシとしましょう... 変なこと、の中には被害妄想も入っていて、母や次女だけでなく、看護師さんまでもいろいろと祖母に言われていたようです。

この時期だと思うのだけれど、入院して間もないときの朗らかな表情とは違い、体もどんどん衰弱していき、治療に疲れ、思い通りにいかない苛立ちで、明らかにきつい表情になっていました。母が言っていました、末期の癌患者は、最初の入院では悟りを開いたように仏様のような顔になるけれど、再入院すると顔つきが変わるのだと。まさに祖母も同じでした。

・11月8日(金)
1日おきにお見舞いに行っているけれど、この日の記録は特にありません。なんとなくボーっとしている祖母と会話をして、またねと言って帰ったような、それくらいの記憶。

・11月9日(土)
祖母が、祖母の彼氏に夜中に電話をして「モーニングに連れて行ってほしい」と言っていたそうです。なぜそれが発覚したのかというと、向かいの患者さんが看護師さんにチクッたのだそう。笑。 夜中に彼氏に電話して告げ口される祖母。なんて祖母らしい...

・11月10日(日)
合成麻薬の張付剤が3mgに。
この日、病室が変更になりました。窓際で明るい部屋。でも、点滴がベッド上の天井に固定された金具に引っ掛けられていました。看護師さんは何も言わなかったけれど、寝たきり認定を受けたようなものでした。
祖母には、窓際になって良かったね、とか、ここ景色がいいわ、とか、今日は比較的暖かいでとか、そんな話をしましたが、祖母の記憶が錯綜していて、現実と夢の中がごっちゃになったような話をしていました。
その日、お昼ごはんにフルーツケーキを買って祖母の近くで食べましたが、30分ほど経ってから「昨日ショートケーキ食べとったん?」と言われ(昨日は来ていないけれど)、「ショートケーキじゃないけど、さっきパウンドケーキ食べてたで」と言うと、ふんと返事がありました。「ケーキ食べたいん?」と聞くと、うん、と言われたのに対して、わたしはうーんと言ってそれ以上何も言えませんでした。祖母が今の状態で口にできるものはないと思っていたことと、売店に買いに行くという考えがそのときのわたしには出てきませんでした。珍しく祖母がこうしてほしいということを口に出したのに、困惑してしまったわたし。食べられなくてもいいからその場で買ってきてあげればよかったと、翌日の母の言葉を聞いて思いました。
「ランドが美味しそうにパンを食べてたからカステラが食べたい」と言うので、母がロールケーキとカフェオレを買ってきて、一口の半分くらいをおいしいと食べたそうです。そんなにも食べたかったんだな、と。

・11月11日(月)
夕方、医師から家族に話があり、母から聞いたところによると、肝不全・腎不全を起こしていて、尿の量も極端に減っているということでした。
昔看護師をしていた母が言うには、尿が減ってくると死が近い、ということでした。
「おばあちゃんが退院するときの服を見に行こう」と母がメールで書いてきたとき、退院という言葉がどういう意味なのか、わたしにもすぐにわかりました。
翌日母の家に泊まる予定にしていて、母は「おばあちゃんの思い出話をしよう」と言いました。まだなんだけれど。でも、それもいいのかもしれないと思いました。悪口大会になるのは目に見えていたけれど、それもそれで、と。笑 

祖母は今、わたしたちがまだ見ぬ場所に旅立つ準備をしている。
いずれわたしたちもそこへ行く。
祖母が今にも旅立ちそうな気配を感じては、そんな風に捉えようとしていました。

・11月12日(火)
前日だったかこの日だったか記憶が定かではないけれど、祖母の部屋がまた変わりました。今までの4人部屋ではなく今度は1人部屋です。
そして、今まで腹水を抜くのはショック死する危険があるからと避けて、利尿薬で少しずつ腹水が溜まらないようにしていたのに、この日腹水を抜きました。10Lある腹水を、2時間かけて2L抜きました。わたしはその間、ドアの外からしか祖母を見ることができず、祖母に顔を見てもらうこともできませんでした。
 


祖母に顔を見てもらえなかったその日の、病院の食堂からの景色。
 


記録に残しておかなければと思い、この日撮った夕方の空。

・11月13日(水)
午前中に次女から母への連絡で「しんどそう。部屋が匂う。」と言っていた話を頭に入れて病室に向かいました。
部屋に入った瞬間、カーテン越しでまだ祖母の姿は目に入ってこなかったけれど、今まで嗅いだことのないような匂いに包まれました。部屋中に充満している匂い。昨日抜いていた赤茶色い腹水、その匂いなのかも知れないなと瞬間的に思いつつ祖母の方を見ると、祖母が、以前の祖母の姿とはまるで違う姿になっていました。
体を横に向け、小さなしゃっくりの連続のような早い息遣いで、唇は息をするためだけの器官となって乾燥し、目はしっかりと見開いていました。今までも急変してきた祖母だけれど、この急変は数時間後の死を予測できるものでした。ただ必死で息をしている―。ただその目は、赤ちゃんの目の表情に似ていて、少し不思議な感覚になったことを覚えています。
母が「来たよー」と声をかけると、首をウンという風に動かすだけで、息苦しいからか声も出せず、態勢も変わりませんでした。
祖母が不安にならないようにと祖母の視界に入るそばまでイスを寄せて座っていたけれど、祖母の口から吐き出される息は、鼻を突くような酸い匂いで、何度も顔を背けそうになりました。母は、風邪を引きかけていたのでマスクをしていて、匂いは感じなかったそうです。
わたしは布団の上に出ている祖母の肩や腕をさすっていましたが、祖母がぐいっと動くたびに、心地悪いのかなと思って、どうしたらいいのか、何て声をかけていいのかわかりませんでした。
母が祖母に「口乾燥してるやろ?口、ガーゼで塗らそうか。」と言って、ガーゼを挟んだお箸に水を含ませて、祖母の口を湿らせました。そこで母がわたしに「リップ塗ったって」と言ったので、近くに置いてあったリップを祖母の口に塗りました。何度も書いてしまうけれど、どこか赤ちゃんのようになった祖母に「もうちょっと口開けた方がいいかも知れん。」と言うと、フワッと口を開けました。あれれ、普通に聴こえてる!ビックリしました。乾燥しすぎていてリップも塗りにくかったけれど、塗った後に「これでいいかな?気持ち悪くない?」と聞くと、少しして片手の指で口を拭いました。「やっぱり塗り過ぎたんかな?」と言いながら母と話をしていると、また片手で口を拭いました。
あれほどに息をするしか動けない状態だったのに、リップに関しては2度も腕を動かした祖母。気持ち悪かったのか、リップを全体に広げようとしたのかわからないけれど、その仕草はとても祖母らしいと思いました。

そして、祖母からは点滴が外され、注射のみになりました。

それからの時間は、祖母の出発を手伝う準備です。
まず酸素吸入器を鼻に入れ、それでも足りなくて酸素マスクに変わり、息遣いが早くなっていた祖母も少しだけ楽になったようでした。見開いた目も体もほとんど動くことはなかったけれど、息だけはリズムを刻んでいるように早く、時折交差させていた足を動かしたり上体を動かしたりしていました。それが、思い立ったように急に動くので、意識がなくなりそうなのを必死で起こそうとしているように感じました。

母は親族に連絡をし、祖母の長女(母)、長男夫婦、次女夫婦とその子供たち、母のつれ合い、わたしが揃い、みんなが祖母のベッドを囲みました。テレビではよく見かける風景、でも、とても違和感のある風景でした。
祖母の四肢のチアノーゼが始まっていて、足も手も凍っているように冷たかったです。わたしはただ、ここにいることを伝えるために、指先と手のひらをさすっていました。看護師さんが持って来てくれた温かいタオルを保温袋から出すときも、祖母の手を離さなかったので、母に「別に離してもいいねんで」と言われたけれど、どうしても離せませんでした。
そして、脈拍や血圧が下がってきたころ、看護師さんが来て横に向いている祖母を仰向けにし、ベッドを少し起こしました。「ずっと横に向いてるのもしんどいと思うので、上に向けますね」と言いつつ祖母の体を動かしていたけれど、この作業は多分、息を引き取るときの顔がみんなに見えるように、なのだなと思いました。今思えば、前日からの医師や看護師の動きは、今日の日を予測していたように思います。
しゃっくりのような祖母の息もだんだんと少なくなってきて、もともと白い顔が少し黄色っぽくなり、白目が黄色く濁り、目を見開いていたものの瞳は灰色になっていて、もう何も見ていないようでした。
脈拍や血圧の動きを表す血圧脈波検査装置を見ながら、時折親族それぞれが祖母に声をかけつつ、祖母が息を引き取るのを待っているような、異様な時間。なんだろう、この、今からクライマックスを迎えますよというような状況。泣く準備をさせられているような時間―

2日前に、「おばあちゃん連れ帰って毎日晩餐をしたい」とわたしに書いてきた母。そんな日を準備する時間もありませんでした。
前日にリスクの高かった腹水を抜く腹腔穿刺をしたのも、多分医師の判断で、息を引き取る前に少しでも腹水を減らしてあげたいという思いがあってのことだったのだとわたしは勝手に理解しています。

亡くなる直前の人が顎だけで息をする下顎呼吸になってからどれくらいの時間が経ったのかわからないけれど、ナースセンターに繋がっている血圧脈波検査装置を見て医師たちが来て、祖母の目にライトを当て、祖母が息を引き取った時間を伝えられました。

・・・祖母が息を引き取った後と少し前と、何が変わったんだろう。ご臨終ですと伝えられただけで、何も変わっていない。頭では、息をしなくなり心臓が止まって"死"んだのだということはわかっているけれど、いきなり涙が出るようなものじゃない。瞬時にそんなような考えが頭によぎったけれど、思いのほか心は脳と違って素直でした。
わたしは泣くまいと思っていたけれど、子供たちが親の死を間近で見て泣いた姿に、涙を堪えられなくなってしまいました。


あんなにいろいろあったのに、最期は子供たちや孫たちがこんなにも集まってくれている光景。
祖母には見えていなかっただろうけれど、亡くなる直前まで聴力だけは残っているというので、みんながかけ続けた感謝の声は届いていたんじゃないかと思います。
長男は、おふくろ、ありがとうな、と言いました。
次女は、お母ちゃんがおらんようになったらわたしはどうしたらいいんよ、と泣きました。
長女は、言葉をかける時間を作らなかったように見えます。でも、祖母が息を引き取った直後に「お母ちゃん」と言い、そばに寄って泣きました。母のつれ合いも泣きました。
こんな光景を見ることになるなんて、こんな日が来るなんて、信じられませんでした。


これが、孫が見てきた1ヶ月+2日間の祖母の最期です。

 

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