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祖母とわたし



《2》祖母とわたし


母の手1つで育てられたわたしは、兄弟もいなかったので、小さい頃から祖母がよく遊び相手をしてくれていました。
大人になり、祖父が亡くなってからはちょくちょく震災復興マンションに1人で住んでいた祖母の家に行き、一緒にご飯を食べたりお酒を飲んだり、ときにはお互いに大好きなカラオケに行ったりもしていました。わたしが外でお酒を飲んだ帰りに祖母の家に寄り、お酒の余韻でぐだぐだとくだを巻いていたときも、わたしが買って行ったお酒を一緒に飲みながら、祖母はそんなわたしにいつも付き合ってくれていました。わたしが家に泊まれば、朝何食べる?と聞いてくれ、パンと温かい紅茶を準備してくれたりしました。お昼に近所のサイゼリヤに行って、お昼から安ワインを飲んだりもしました。


「やさしくて大好きなおばあちゃん。」
と、本来ならこの流れでそう書きたいところですが。

18歳でわたしの母を産み、そのせいなのか子供や動物をかわいいと思ったことがないと実の子に言ってしまうような人で、幼い長女(わたしの母)を置いて何度となく家出を繰り返し、親が子供に対して決して言ってはいけないような言葉を吐き、子供心を傷つけ、わたしの母は幼心に親への失望や寂しさを背負っていたようです。母の口癖は「あんな親から、よくもグレずにこんなええ子が育った!」です。
子供が親に愛してほしいと思うのは当然のことで、母親からの愛情を感じられずに育ったわたしの母は、とにかくしっかりとした自立心の強い女性になっていきました。そんな母に対して祖母はライバル意識を持ち、言い合いや大喧嘩にならないまでも会えば喧嘩するような関係に―。
ほんとうにいろいろとありました。
母のつれ合いとも考え方の不一致で(そもそも祖母の考え方に一致する人はほとんどいなかったかも知れない)、4人で飲みに行けば毎回と言っていいほど言い合いのようになり、母と祖母が1〜2年絶縁状態の時期もありました。んー、母が祖母について文章を書いたらどんなことになるでしょう!予測できますが、到底わたしの口からは言えません...。そんな風だったのにも関わらず、長女としての役割をしっかり最後まで果たした(今も祖母のことでいろいろ動いてくれています)母は、やっぱり長女なのだと思います。
でもわたしも実は、今年の6月に母のつれあいの誕生日会-という名の家族飲み-をするまで、祖母とは1年ほど絶縁状態でした。母の弟である長男は、阪神大震災で新長田の家を失って以来長らく祖父母と絶縁状態で、祖母の病気が発覚するまで何度目かの絶縁状態。何かと子供たちとの関係は複雑なものでした。祖母自身も8人兄弟の長女だったけれど、孫から見てもどこかいつもフワフワしていて、長女らしさを感じることのない人でした。着物や宝石が大好きで、きらびやかなことが大好きでした。

10年ほど前は、わたしもしょっちゅう1人で祖母の家に行っていたけれど、ここ数年は、祖母と会うときはたいてい母と母のつれ合いとの4人で地元の居酒屋でした。会う時間は極端に減っていたけれど、もう何年も祖母には大好きな同い年の彼氏がいたので別段寂しそうな感じもなく、会ったら会ったでずっと彼氏のノロケ話。時折メールしては、祖母の的確な絵文字使いに若さを感じてビックリしたりもしていました。やっぱり恋というものは人をいつまでも若くいさせるものなんだなーと妙に感心したりもしていました。

祖母が、ランドは会いに行く会いに行くと言って全然来ない、と母に言っていた時期のことを今さら後悔しても仕方がないけれど、会ってどんなに嫌なことを言われようが会っていた方がよかったんじゃないかと思ってしまいます。でも、人間生きていればそういう時期だってある。家族や親しい誰かが亡くなれば必ずと言っていいほど感じる後悔。それは、不可抗力に近いものなのだと思います。
今年の6月に会って以降なかなか会う時間を持てなかったけれど、祖母の病気が発覚してからは、わたしは祖母に会いに行く時間をしっかりと取ることができました。この1ヶ月は祖母が家族に与えてくれた1ヶ月。今はそう思います。


"ランドのおばあちゃん"。
いとこが祖母のことをいつもそう呼んでいました。
わたしのおばあちゃん。
その一言だけで、ほんとうは説明なんてしなくてもよかったのかも知れないけれど。


写真は、お見舞いから帰るときの自宅の最寄りの駅にて。

 

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